サニー・シックスティーン・ルール(中央公論新社)

小説『サニー・シックスティーン・ルール』の主人公は文学一家に生まれたものの、文学の才能なしと家族から烙印を押されてしまいます。

人生に絶望していた時、彼が出会ったのは難聴の女の子でした。その彼女の肩にはカメラがありました。写真というそれまでと違う表現に惹かれ取り組み始めた主人公。写真を通じて出来た仲間達や断ち切れない家族との関係。それらは全て邪魔なのか?それとも自身の一部として表現へと結実するのか?

作中で著者の語る写真表現論は写真だけでなく多くの表現活動にも当てはまるのではないでしょうか?

※おまけ 小説の紹介らしくないとボツになった乙案

表現するって何でしょう?絵を描くこと?歌うこと?踊ること?それらは全てそうであり、それでだけではないと店主は思います。小説『サニー・シックスティーン・ルール』には写真という表現を追及する人達が出てきます。撮影者と被写体の間に存在するカメラは脳内補正とかそういったものを全て剥ぎ取り暴いてしまします。人はどこまで己が信じる表現に向けて邁進できるか、恋とか肉親とかそういったものは全て邪魔なのか?それらもまた自身の一部として表現へと結実するのか?そんな寄る辺ない問いと共に彼らは今日もシャッターを切っていることでしょう。店主はこのお店という表現をまだまだ追及しなきゃだなぁ。